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竹久夢二の足跡
年譜

明治17年、岡山に生まれた夢二は18歳で上京し、雑誌や新聞にコマ絵を寄稿するところから画家としての道を歩み始めます。
やがて「夢二式美人」といわれる独特の情感をたたえた美人画のスタイルを確立、叙情あふれる画集を次々と発表して人気作家となりました。
また、雑誌の表紙や広告から、千代紙、便箋、封筒、うちわ、半襟、浴衣などの日用品まで幅広くデザインを手がけ、
商業美術や出版の世界でも卓越した存在でした。
仕事の領域は画家にとどまらず、今でいうイラストレーター、グラフィックデザイナー、あるいはアートディレクターの先駆者といえるでしょう。

そんな夢二の姿は、19世紀末のパリで活躍したベル・エポックを象徴する画家、トゥールーズ=ロートレック(1864〜1901)に重なります。
ともに画壇に属さず、版画やポスターを独立したジャンルにまで高めた2人は、時代の先端を読み取る感性を持っていました。
明治30年代ごろから、ヨーロッパの世紀末芸術の波が日本にも押し寄せます。
夢二も、洋雑誌や美術書からロートレックをはじめ、
ゴッホ、ゴーギャン、ルドン、ムンク、ビアズリーらの図版を切り抜いて貼りつけたスクラップ・ブックを残しており、
熱心に研究したことがうかがえます。
一方、ロートレックら世紀末の芸術家も日本美術の影響を受けていて、時を超えて呼応するかのような関係に興味は尽きません。

明治17年(1884)1歳
9月16日 岡山県邑久郡本庄村大字本庄119番邸に父菊蔵、母也須能の次男に生まれる
本名、茂次郎(もじろう)。姉、松香7歳。
明治24年(1891)8歳
明徳小学校に入学。
明治28年(1895)12歳
邑久高等小学校に入学。
明治32年(1899)16歳
叔父、竹久才五郎を頼って神戸中学校に入学。在学8ヵ月で家事都合により中退。
12月 一家で福岡県遠賀郡八幡村大字枝光に転居。
明治34年(1901)18歳
夏 家出して上京、苦学。
明治35年(1902)19歳
早稲田実業学校に入学。
明治38年(1905)22歳
同校専攻科に進学。6月4日付読売新聞日曜付録に投書の「可愛いお友達」が初めて活字となる。
『中学世界』に応募したコマ絵「筒井筒」が第一賞入選。初めて夢二の筆名を用いる。
早稲田実業専攻科を中退。投書家時代を終える。
明治39年(1906)23歳
11月 島村抱月編『少年文庫』壱之巻の装幀、口絵等を担当
明治40年(1907)24歳
1月 岸たまきと結婚。たまきをモデルに「夢二式美人」生まれる。
平民新聞にて幽冥路の筆名を用い、コマ絵や川柳を発表。
明治41年(1908)25歳
2月 長男虹之助生まれる。水彩画「BROKEN MILL AND BROKEN HEART」を描き、大下藤次郎を訪れ、岡田三郎助の助言を受ける。
明治42年(1909)26歳
5月 たまきと戸籍上離婚。
12月 最初の著作『夢二画集 春の巻』刊行。この後、昭和5年まで約60冊の自著を刊行する。
明治43年(1910)27歳
6月 エハガキ『月刊夢二カード』第一集発行。
8月 たまきと千葉県海鹿島に滞在。
明治44年(1911)28歳
5月 次男不二彦生まれる。
9月 『月刊夢二エハガキ』発行開始。この後毎月発行され、102集まで約9年間継続される。
明治45年/大正元年(1912)29歳
6月 『少女』誌上に、さみせんぐさの筆名で「宵待草」の原詩が発表される。
11月23日より12月2日まで 京都岡崎公園の京都府立図書館で「第一回夢二作品展覧会」を開催、油彩画「初恋」ほか137点を展示。
大正2年(1913)30歳
11月 『どんたく』刊行、「宵待草」が現在の詩形で発表される。
大正3年(1914)31歳
1月 岡山で画会。
10月 日本橋区呉服町に「港屋」開店。
10月26・27日 「第一回港屋展覧会」を開催。この頃、笠井彦乃と出会う。
大正4年(1915)32歳
3月 富山市渦巻亭で画会。「一力」「こたつ」はこの時に描かれた。
大正5年(1916)33歳
2月strong> 三男草一生まれる。
4月 エロシェンコ、秋田雨雀と水戸へ講演旅行。セノオ楽譜「お江戸日本橋」を手はじめに、昭和に及ぶまで270余のセノオ楽譜表紙の装幀をする。
1 月京都へ移る。
大正6年(1917)34歳
6月 彦乃京都へ来る。
9月 金沢市で「夢二抒情小品展覧会」を開催。
大正7年(1918)35歳
4月 京都府立図書館で「竹久夢二抒情画展覧会」を開催。会期中に「邪宗渡来」「旅の唄」を制作し、出品。
5月 神戸市下山手通キリスト教青年会館で「竹久夢二抒情画展覧会」を開催。
8〜9月 九州旅行。旅行先で彦乃病む。
9月 多忠亮が作曲した「宵待草」がセノオ楽譜から出版される。
11月 夢二東京に帰り、本郷区菊坂の菊富士ホテルに移る。
大正8年(1919)36歳
6月 三越で「女と子供によする展覧会」を開催。「砂時計」を出品。
9月 福島で画会。この年、お葉<佐々木カ子ヨ(かねよ)>モデルとして菊富士ホテルへ通う。
大正9年(1920)37歳
1月16日 彦乃、東京お茶の水順天堂医院にて永眠(享年25歳)。
11月 大阪時事新報に「凝視」の挿絵を連載。翌年4月まで続くこの年「秋のいこい」が描かれる。
大正10年(1921)38歳
6〜7月頃 渋谷町宇田川に、お葉と世帯をもつ。
8〜11月 福島、会津等に長期旅行し、画会を開く。「盆おどり」はこのときに描かれた。
大正12年(1923)40歳
5月 恩地孝四郎らと「どんたく図案社」結成の宣言文を発表。
8月 都新聞に自作自画長篇小説『岬』を連載。
9月1日 「どんたく図案社」は関東大震災で潰滅。
9月14日 から都新聞に「東京災難画信」を連載。
大正13年(1924)41歳
9月 都新聞に絵画小説『秘薬紫雪』を連載。
10月 都新聞に絵画小説『風のやうに』を連載。
12月 東京府下荏原郡松沢村松原790に自ら設計したアトリエ付住居「少年山荘」(山帰来荘)完成。
昭和2年(1927)44歳
都新聞に自伝絵画小説『出帆』を連載。
昭和3年(1928)45歳
3月 母、妹の日下栄宅で没(享年72)。
昭和4年(1929)46歳
3月 群馬県高崎市で吉井勇らと、文芸大講演会を開く。
昭和5年(1930)47歳
2月 銀座資生堂で「雛によする展覧会」を開催。
5月 「榛名山美術研究所建設につき」宣言文を発表。森口多里、島崎藤村、有島生馬、藤島武二らが名を連ねる。
昭和6年(1931)48歳
2月 父、妹日下栄宅で没(享年79)。
3月 新宿三越で「竹久夢生展覧会」を開催。「遠山に寄す」を出品。
4月 新宿紀伊國屋書店で「竹久夢二氏送別産業美術的作品総量展覧会」、上野松坂屋で「竹久夢生告別展覧会」を開催。この年、「立田姫」が描かれる。
4月~5月 「榛名山産業美術学校建設・夢二画伯外遊送別舞踊と音楽の会」が前橋市、富岡町、高崎市などで催される。
5月7日 横浜港より秩父丸で出帆、ホノルルに2週間滞在の後、龍田丸でアメリカへ向かう。
9月 カーメルのセブンアーツギャラリーで展覧会開催。
昭和7年(1932)49歳
2〜3月 カリフォルニア大学ロサンゼルス校教育学部、サンピドロのオリンピックホテルで個展開催。
9月10日 サンピドロ港よりタコマ号で出帆。パナマ運河経由で10月10日、ドイツのハンブルグ着。船中でビール箱の蓋に「FAREWELL AMERICA」を描く。欧州各地を廻る。
昭和8年(1933)50歳
春頃 ベルリンのイッテン画塾で日本画講習会を開く。
9月18日 靖国丸で神戸に帰着。
10月26日 河瀬蘇北に伴われ台湾を訪れ講演し、「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会」を開催。
11月 帰国。病悪化し病臥。
昭和9年(1934)51歳

1月 信州富士見高原療養所の正木不如丘所長に迎えられ、特別病棟に入院、手厚い看護をうける。
4月 最後の装幀本『祇園囃子』(長田幹彦著)が刊行される。8月辞世となった「日にけ日にけかつこうの啼く音ききにけり かつこうの啼く音はおほかた哀し」が記される。
9月1日 午前5時40分「ありがとう」の言葉を残して逝去。雑司ヶ谷墓地に埋葬。有島生馬の筆になる「竹久夢二を埋む」の碑を建てる。

(この年譜は長田幹雄編「竹久夢二年譜」を基本に作成)
※年齢は数え年