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館長メッセージ
夢二郷土美術館館長
小嶋光信 夢二郷土美術館のホームページへようこそ、心をこめて夢二の故郷をご案内いたします。 夢二郷土美術館のこだわりは、夢二のコレクターであり、初代館長であった故松田基( まつだもとい)の命名に込められています。松田が夢二郷土美術館と名付けたとき、私は夢二美術館のほうが簡潔で良いのではないですかと言いました。松田は、郷土の二文字があることにこの美術館の意味があり、二つとない美術館なのだと静かに答えて、その先は詳しく語りませんでした。 平成21年9月に生誕125年を迎えるにあたって、あらためてこの郷土岡山から夢二を見つめなおしてみたいと思います。 「晴れの国」と言われ、気候風土に恵まれたここ岡山・後楽園のたもとに、生誕100年を記念して建てられた夢二郷土美術館本館があります。夢二が好んだ白壁となまこ壁、大正時代の雰囲気を漂わす赤レンガの建物に展示された、夢二のたくさんの作品を楽しんでください。憂いを秘めた大きな瞳、独特の大きな手足とS字に描かれた女性たちや、今でも新しいデザインの数々をご覧ください。 岡山県瀬戸内市邑久(おく)町にある夢二の生家は、現在夢二郷土美術館の分館として公開され、夢二が少年時代を過ごした部屋からは、いきいきとして豊かな農村の風景が見られます。慕っていた姉があぜ道を嫁ぐ後ろ姿を格子の窓越しに眺め、姉を思って柱に墨で書いた姉の名「松香(まつか)」と夢二の本名「茂次郎(もじろう)」が、百年を経た今でもうっすらと残っています。懐かしい母や黒髪の美しい姉への思いが、優しく憂いを秘めた夢二式美人の伏線になっていると私は思います。 男性はいつまでも少年の頃の気持ち、女性への思慕の情を持ち続けているのですが、まさしく彼の夢二式美人には、この少年期に抱いた母や姉に代表される女性への思いが、素直に表現されており、それが人心を捉えるのだと思います。 また、明治42年発行の『夢二画集春の巻(ゆめじがしゅう はるのまき)』に「故郷(ふるさと)に帰ればへへののもへじかな」の句を遺していますが、彼の作品には、16歳までのひょうきんでお調子者であったという多感な少年期を過ごした故郷の思い出が深く込められており、村祭りや村芝居、裏山の椿の木の回りで遊んだ子供のころの様子が、絵や詩に多く描かれています。 夢二の評は沢山ありますが、故郷を知らずして、彼を語ることは片落ちだと思います。若い頃は社会主義に傾倒し、風刺のコマ絵などを多く描いていますが、「絵筆折りて、ゴルキーの手をとらんには、あまりにも細きわが腕かな」と詠(うた)っているように、マルキストというよりは、むしろ岡山人気質に共通するヒューマニストであったという松田の夢二観に、私も同感です。豊かな岡山の風土から生まれた、やや反権力的で、だれの世話にもならないという気概が底辺にあるように思います。師をもたず画壇に属さず、生涯自由な作風を創り続けた彼の姿勢は、まさしく岡山人なのです。 大正前期に描かれた「日本男児」の画賛には「日本男児は泣きませぬ 泣くのは涙ばかりです」とあり、また「日本に生まれてここにあり」と言い切った彼の言葉にも、難解な主義主張ではなく、たんに庶民感覚をもった心優しき日本人であった夢二を感じます。 穏やかな瀬戸内の港町・牛窓の近く、邑久町の夢二の生家を是非ご覧ください。復元された「少年山荘」から、茂次郎橋を渡って茅葺きの生家に入ると、夢二の子供の頃に戻れます。姉を慕って書いた墨書の残る窓辺に座ると、嫁いで行く姉を思う夢二の心が伝わってくるようです。