- 明治17年(1884)1歳
- 9月16日岡山県邑久郡本庄村大字本庄119番邸に父菊蔵、母也須能の次男に生まれる
本名、茂次郎(もじろう)。姉、松香7歳。 - 明治24年(1891)8歳
- 明徳小学校に入学。
- 明治28年(1895)12歳
- 邑久高等小学校に入学。
- 明治32年(1899)16歳
- 叔父、竹久才五郎を頼って神戸中学校に入学。在学8ヵ月で家事都合により中退。
- 12月一家で福岡県遠賀郡八幡村大字枝光に転居。
- 明治34年(1901)18歳
- 夏家出して上京、苦学。
- 明治35年(1902)19歳
- 早稲田実業学校に入学。
- 明治38年(1905)22歳
- 同校専攻科に進学。6月4日付読売新聞日曜付録に投書の「可愛いお友達」が初めて活字となる。
- 『中学世界』に応募したコマ絵「筒井筒」が第一賞入選。初めて夢二の筆名を用いる。
- 早稲田実業専攻科を中退。投書家時代を終える。
- 明治39年(1906)23歳
- 11月島村抱月編『少年文庫』壱之巻の装幀、口絵等を担当
- 明治40年(1907)24歳
- 1月岸たまきと結婚。たまきをモデルに「夢二式美人」生まれる。
- 平民新聞にて幽冥路の筆名を用い、コマ絵や川柳を発表。
- 明治41年(1908)25歳
- 2月長男虹之助生まれる。
- 水彩画「BROKEN MILL AND BROKEN HEART」を描き、大下藤次郎を訪れ、岡田三郎助の助言を受ける。
- 明治42年(1909)26歳
- 5月たまきと戸籍上離婚。
- 12月最初の著作『夢二画集 春の巻』刊行。この後、昭和5年まで約60冊の自著を刊行する。
- 明治43年(1910)27歳
- 6月エハガキ『月刊夢二カード』第一集発行。
- 8月たまきと千葉県海鹿島に滞在。
- 明治44年(1911)28歳
- 5月次男不二彦生まれる。
- 9月『月刊夢二エハガキ』発行開始。この後毎月発行され、102集まで約9年間継続される。
- 明治45年/大正元年(1912)29歳
- 6月『少女』誌上に、さみせんぐさの筆名で「宵待草」の原詩が発表される。
- 11月23日より12月2日まで京都岡崎公園の京都府立図書館で「第一回夢二作品展覧会」を開催、油彩画「初恋」ほか137点を展示。
- 大正2年(1913)30歳
- 11月『どんたく』刊行、「宵待草」が現在の詩形で発表される。
- 大正3年(1914)31歳
- 1月岡山で画会。
- 10月日本橋区呉服町に「港屋」開店。
- 10月26・27日「第一回港屋展覧会」を開催。この頃、笠井彦乃と出会う。
- 大正4年(1915)32歳
- 3月富山市渦巻亭で画会。「一力」「こたつ」はこの時に描かれた。
- 大正5年(1916)33歳
- 2月三男草一生まれる。
- 4月エロシェンコ、秋田雨雀と水戸へ講演旅行。
- セノオ楽譜「お江戸日本橋」を手はじめに、昭和に及ぶまで270余のセノオ楽譜表紙の装幀をする。
- 11月京都へ移る。
- 大正6年(1917)34歳
- 6月彦乃京都へ来る。
- 9月金沢市で「夢二抒情小品展覧会」を開催。
- 大正7年(1918)35歳
- 4月京都府立図書館で「竹久夢二抒情画展覧会」を開催。会期中に「邪宗渡来」「旅の唄」を制作し、出品。
- 5月神戸市下山手通キリスト教青年会館で「竹久夢二抒情画展覧会」を開催。
- 8〜9月九州旅行。旅行先で彦乃病む。
- 9月多忠亮が作曲した「宵待草」がセノオ楽譜から出版される。
- 11月夢二東京に帰り、本郷区菊坂の菊富士ホテルに移る。
- 大正8年(1919)36歳
- 6月三越で「女と子供によする展覧会」を開催。「砂時計」を出品。
- 9月福島で画会。
- この年、お葉<佐々木カ子ヨ(かねよ)>モデルとして菊富士ホテルへ通う。
- 大正9年(1920)37歳
- 1月16日彦乃、東京お茶の水順天堂医院にて永眠(享年25歳)。
- 11月大阪時事新報に「凝視」の挿絵を連載。翌年4月まで続く
- この年「秋のいこい」が描かれる。
- 大正10年(1921)38歳
- 6〜7月頃渋谷町宇田川に、お葉と世帯をもつ。
- 8〜11月福島、会津等に長期旅行し、画会を開く。「盆おどり」はこのときに描かれた。
- 大正12年(1923)40歳
- 5月恩地孝四郎らと「どんたく図案社」結成の宣言文を発表。
- 8月都新聞に自作自画長篇小説『岬』を連載。
- 9月1日「どんたく図案社」は関東大震災で潰滅。
- 9月14日から都新聞に「東京災難画信」を連載。
- 大正13年(1924)41歳
- 9月都新聞に絵画小説『秘薬紫雪』を連載。
- 10月都新聞に絵画小説『風のやうに』を連載。
- 12月東京府下荏原郡松沢村松原790に自ら設計したアトリエ付住居「少年山荘」(山帰来荘)完成。
- 昭和2年(1927)44歳
- 都新聞に自伝絵画小説『出帆』を連載。
- 昭和3年(1928)45歳
- 3月母、妹の日下栄宅で没(享年72)。
- 昭和4年(1929)46歳
- 3月群馬県高崎市で吉井勇らと、文芸大講演会を開く。
- 昭和5年(1930)47歳
- 2月銀座資生堂で「雛によする展覧会」を開催。
- 5月「榛名山美術研究所建設につき」宣言文を発表。森口多里、島崎藤村、有島生馬、藤島武二らが名を連ねる。
- 昭和6年(1931)48歳
- 2月父、妹日下栄宅で没(享年79)。
- 3月新宿三越で「竹久夢生展覧会」を開催。「遠山に寄す」を出品。
- 4月新宿紀伊國屋書店で「竹久夢二氏送別産業美術的作品総量展覧会」、上野松坂屋で「竹久夢生告別展覧会」を開催。
- この年、「立田姫」が描かれる。
- 4月~5月「榛名山産業美術学校建設・夢二画伯外遊送別舞踊と音楽の会」が前橋市、富岡町、高崎市などで催される。
- 5月7日横浜港より秩父丸で出帆、ホノルルに2週間滞在の後、龍田丸でアメリカへ向かう。
- 9月カーメルのセブンアーツギャラリーで展覧会開催。
- 昭和7年(1932)49歳
- 2〜3月カリフォルニア大学ロサンゼルス校教育学部、サンピドロのオリンピックホテルで個展開催。
- 9月10日サンピドロ港よりタコマ号で出帆。パナマ運河経由で10月10日、ドイツのハンブルグ着。船中でビール箱の蓋に「FAREWELL AMERICA」を描く。欧州各地を廻る。
- 昭和8年(1933)50歳
- 春頃ベルリンのイッテン画塾で日本画講習会を開く。
- 9月18日靖国丸で神戸に帰着。
- 10月26日河瀬蘇北に伴われ台湾を訪れ講演し、「竹久夢二画伯滞欧作品展覧会」を開催。
- 11月帰国。病悪化し病臥。
- 昭和9年(1934)51歳
- 1月信州富士見高原療養所の正木不如丘所長に迎えられ、特別病棟に入院、手厚い看護をうける。
- 4月最後の装幀本『祇園囃子』(長田幹彦著)が刊行される。
- 8月辞世となった「日にけ日にけかつこうの啼く音ききにけり かつこうの啼く音はおほかた哀し」が記される。
- 9月1日午前5時40分「ありがとう」の言葉を残して逝去。雑司ヶ谷墓地に埋葬。有島生馬の筆になる「竹久夢二を埋む」の碑を建てる。
(この年譜は長田幹雄編「竹久夢二年譜」を基本に作成)
※年齢は数え年